日本能率協会の経営情報誌『JMAマネジメント』の誌面から「乱世の名将に学ぶ」全8回の連載をお届けしてまいります。
フリーライター 川田俊治 × JMAマネジメント編集室
“戦国一の出世頭”と評される豊臣秀吉は、信長の後継者レースに勝利し、西は中国・四国・九州、東は奥州まで平定した。晩年は愛児の先行きを危惧するあまり老醜をさらしたが、己の知恵と打たれ強さ、人の心をつかむ才で成りあがった稀有な武将だ。最近の有力説では、秀吉の生年は1537年(天文6)。信長より3年遅く、家康より5年早く生まれた。結果的には、東海地方で生を受けた3武将が、戦国乱世に終止符を打つリレーのバトンを年齢順に渡したかたちだ。
放浪先の恩人を召し抱え、城持ち身分に
秀吉の父は、尾張国愛知郡中村郷(現・名古屋市中村区)の足軽と伝わる。まだ兵農分離前であり、戦いになると領主(信長の父・信秀)に駆り出されて、最下級の兵卒となる農民であった可能性が高い。幼名「日吉丸」は江戸期の創作のようだ。義父(実父説も)との折り合いの悪かった秀吉が、生家を飛び出したのは10代前半。相当に思い切りのいい、肚のすわった少年だったと思われる。
東海地方は当時、今川義元の絶頂期。針売りなどをしながら今川の領地(三河・遠江)を放浪し、最初に仕えたのは曳間(現・静岡県浜松市)の支城を預かっていた今川家陪臣の松下之綱だ。
この主従関係は数年つづき、之綱は愛嬌たっぷりで知恵がまわる猿顔の小柄な少年に目をかけ、武芸・兵法から基礎的学問までを教え、接待係や勘定係に取り立てたという。秀吉にすれば、はじめて人らしく扱ってくれたうえ、侍の素養まで授けてくれた大恩人だ。
しかし、“出る杭”は打たれる。新参者をいたぶり誹謗中傷するような家来の態度を容認し、組織の和を保つため退去を求めた之綱、ひいては、今川家の“ぬるま湯”体質に嫌気がさした秀吉は、今川家の将来に見切りをつけて尾張へ戻る決心をする。時代の先を読む目をすでに備えていたといえよう。
之綱との縁はその後、復活する。長浜城主となった秀吉が、今川家衰亡後に徳川家に仕えていた之綱を召し出して家臣とした。そして、小田原征伐後には遠州に1万6,000石もの所領を与えた。之綱は小さいながら城を構え、その娘・おりんは柳生藩の開祖・柳生宗矩に嫁いで十兵衛はじめ4人の男児をもうけた。之綱は彼らの祖父にあたる。
ともあれ秀吉は、遠い過去の恩を忘れず報いるという側面も併せもっていた。秀吉の“度量”のとてつもない大きさを示す逸話は数かずある。
器が大きくなければ、変化を取り込み、逆境に抗い成長する組織のトップは務まらない。
あえて火中の栗を拾い成果をあげて頭角を現す
秀吉が小者として信長に仕えたのは、1554年(天文23)頃からだとされる。忠義心の発露として信長の草履をふところに入れて温めるくらいのことは、してのけたであろう。秀吉は、信長にとって気のおけない家来となり、サルとかハゲネズミとか罵られても笑いながら出世の階段をのぼりはじめる。足軽頭となっていた1561年(永禄4)に、同じ長屋に住む同僚・浅野長勝の養女と結婚。秀吉の正妻として「北政所」「高台院」と呼ばれる存在となるのが、この女性、おね(諸説ある)である。子はなさなかったが、双方の親類縁者の子ども(加藤清正、福島正則ら)を養育し、また、前田利家らの妻女と友誼を深め、内助の功に努めた功績は見逃せない。
信長が手を焼いた美濃攻略の突破口となる「墨俣一夜城」構築は秀吉の手柄とされる。川並衆(木曽川沿いに勢力をもったという土豪集団)の蜂須賀小六らを配下に入れて駆使した成果だろう。1567年(永禄10)、斎藤氏を滅ぼした信長は、秀吉の要請を受け入れて軍師・竹中半兵衛を寄騎として与えた。
秀吉には、自ら手をあげて困難な役目を引き受け、成果をあげていった例が多い。朝倉氏・浅井氏との戦いにおいても、金ヶ崎退き口でしんがりを買って出て信長の危機を救い、小谷城の戦いでは信長の妹・お市の方と娘3人を無事に連れ出した。
出る杭は打たれるとわかっていても、出ない杭のままでは無視されるか踏みにじられる。出る杭になる以上、打たれる心配のないほど高くそびえた杭になる。多士済々の織田家中で頭角を現すことができたのは、あえて火中の栗を拾うような気質が、信長にとって好ましかったからではないか。
晩年の愛児誕生で度量の大きさが消えた秀吉
1573年(天正元)、浅井氏を滅ぼした信長は、その旧領・北近江3郡を秀吉に与えた。旧地名の今浜を「長浜」と改めた秀吉は城主となり、敗れた浅井家臣のほか地元土豪の子弟から人材発掘に励んだ。「三献茶」の逸話がある石田三成は、この時期に父と兄と一緒に秀吉に仕えた。1577年(天正5)に信貴山城の戦い、手取川の戦いに出陣したあとは、中国攻めを命じられて山陰・山陽を転戦する。この戦は足かけ6年に及び、1582年(天正10)6月2日に信長は京都本能寺で果てた。
信長死亡の報をいち早くつかんだ秀吉は、4日に毛利氏と講和し、「中国大返し」の離れ業をやってのけ、13日には山崎の戦いで明智光秀軍を破る。27日には信長の後継者選びと遺領配分を決める清洲会議に臨み、強引に信長嫡孫・三法師の家督擁立へと結論を導いていく。そして、翌年4月に、信長の三男・信孝を後継者に推していた柴田勝家と賤ケ岳(現・滋賀県長浜市)で戦って勝利し、秀吉は天下人への道を切り開いていった。 信長の次男の信雄と徳川家康の連合軍を相手にした小牧・長久手の戦いでは不利を強いられたが、和睦にもち込んで戦略的勝利を収めた。近衛前久の猶子となって、朝廷の臣下という体裁を整えたうえで、関白の宣下を受けたのは1585年(天正13)7月。
しかし、秀吉は公卿となってからも九州征伐、小田原征伐、奥州仕置、朝鮮出兵開始(文禄の役)と、戦いの鉾をおさめようとはしない。
その間に側室・淀の方が2度、男児を出産した。初子の鶴松は夭逝したが、文禄の役開始の翌年(1593年)、秀頼が生まれた。再度の朝鮮出兵を開始し、1598年(慶長3)8月18日、秀頼の将来を案じて苦悩しながら伏見城で薨去。
鶴松の死後に養子とした秀次に関白の座を譲ったが、秀頼誕生を機に不仲となり、謀叛の疑いをかけて死に追いやり、その子弟・妻妾までも京都三条河原で刑死させた。わが子可愛さから、往時の度量の大きさは消えてしまっていた。
醍醐の花見を秀頼や側室らと楽しんだあと、5月には床に伏して病状は日々悪化。五大老らに11カ条に及ぶ遺言書を出し、血判付きの起請文の返答を求めた。7月に伏見城に主要大名を呼び寄せたうえで、家康に秀頼の後見人になるよう頼み込み、8月5日には五大老宛てにふたたび遺言書を記す。
「是非に及ばず」のひと言で逝った主君信長のような潔さはまるでない。なまじ晩年になって後継者となるべき男児が生まれたことが、秀吉の心理状態を狂わせたのだろうか。
「密かに我が身の目付に頼みおき、時々異見をうけたまわり、我が身の善悪を聞きて万事に心を付けること、将たる者、第一の要務なり」
こんな言葉も残している秀吉だが、現実には上下関係の明確な封建社会で、天下人の秀吉に諫言できる者はいなかった。トップたる者として、晩節を汚さぬためには、諫言してくれる腹心の部下(友)の存在と、その諫言を聞き入れる度量を見せることも求められよう。
本コラムは2017年12月の『JMAマネジメント』に掲載されたものです。
*年齢はいずれも数え年。歴史には諸説、諸解釈がありますことをあらかじめお断りしておきます。