「第六天魔王」の悪名も厭わず天下統一へ邁進 狂気を帯びた天才武将、織田信長:乱世の名将に学ぶ 6

日本能率協会の経営情報誌『JMAマネジメント』の誌面から「乱世の名将に学ぶ」全8回の連載をお届けしてまいります。

フリーライター 川田俊治 × JMAマネジメント編集室

織田信長は49歳で本能寺にて自刃した。武田信玄は53歳、上杉謙信は49歳で病死しており、けっして短命とはいえないが、乱世にあっても規格外だった信長が、もし生涯をまっとうしていたら、日本の歴史はどう変わっていたか。後世の者はそんな想像もしたくなる。信長の最期の言葉として伝わるのは「是非におよばず」。夢完遂には至らずとも十二分に生き切ったという潔さが伝わってくる。

港と商業で経済基盤を培った父の戦略は継承

信玄の父・武田信虎、謙信の父・長尾為景と同様、信長の父・織田信秀もなかなかの戦国武将だった。
もともと足利将軍家の有力一門として越前・尾張・遠江などの守護を世襲していた斯波しば氏は、16世紀には尾張一国の名ばかりの守護に弱体化し、実権は守護代を務める織田氏が握っていた。
その織田氏も、伊勢守家と大和守家に分裂する。信秀は、尾張8郡のうち下4郡を支配する大和守家の庶流に生まれたが、伊勢湾に近い良港と商業都市でもあった門前町・津島を支配するところから勢力を拡大。そして、戦略に合わせて拠点の城を転々と移すとともに、多額の献金で朝廷や室町幕府に接近していく。1539年(天文8)には熱田神宮で栄える熱田の町を支配下に加え、経済基盤をさらに固めた。
その後、守護家および守護代家とは名目上の臣従関係のまま、尾張国内の抵抗勢力を圧倒して実質的な戦国大名に浮上し、美濃の斎藤氏や駿河の今川氏と戦うまでの力をつけていった。
信長は、そんな勢力拡大中の織田信秀の嫡男として1534年(天文3)に誕生した。しかし、美濃との戦いで劣勢を強いられるようになった信秀は、斎藤氏と和睦して道三の娘・濃姫(帰蝶)を信長の正室に迎え入れたのち、1551年(天文20)に死没。
信秀との間に信長はじめ4男2女をもうけた継室の土田御前は、夫亡きあと、粗野で“大うつけ”と称される信長を嫌い、品行方正で聡明な次男の信行とともに末森城に移り住んだ。家督を継いだ信長は、信行を支持する家臣団との争いを制し、敵対勢力を一掃して1559年(永禄2)には尾張を統一した、とされる。
旧来秩序を破り切れなかった父・信秀とは違って苛烈さをもつ信長だが、港や商業都市のもつ経済力を重視し、商業活性化を図る戦略は受け継ぐ。天下統一への過程で、支配下に入った他国にも楽市楽座を普及させた策は、その延長線上だといえよう。

岐阜に居城を移し「天下布武」へ

1560年(永禄3)、信長は上洛途上の今川義元を桶狭間で討ち取り、27歳にして一躍名をとどろかせる。信長側近の太田牛一が記した『信長しんちょう公記こうき』には桶狭間出陣前の様子が活写されている。
「此の時信長、敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきかとて、ほらふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、たちながら御食を参り、御甲をめし候ふて御出陣なさる」
次なる目標は“しゅうとあだ”を名目とした美濃進攻だ。父である道三を敗死させて斎藤家の家督を継いだ義龍は、手強かったが1561年(永禄4)に急死したため、息子の龍興が跡を継ぐ。龍興は井ノ口城で織田軍の進攻に耐えたが、要衝の地、墨俣すのまたに城を築かれてから圧迫され、1567年(永禄10)、美濃3人衆と呼ばれた重臣にそむかれて孤立し、降伏して井ノ口城から退去した。
美濃を領地に加えた信長は、井ノ口を岐阜と改称。信長にその進言と、「天下布武」の朱印を授けたのは、臨済宗妙心寺派の僧・沢彦たくげん宗恩そうおんだとされる。
快川かいせん紹喜じょうきと兄弟の契りを結んでいたといわれる沢彦は、信長の後見役だった平手政秀に、幼年期の信長の教育係として招かれ、諫死かんしした平手の菩提を弔うために信長が建てた政秀寺の開山を務め、信長が長じてからは参謀役を果たした。岐阜に本拠を移した信長は、そこから素早く天下統一への布石を打っていく。

魔王の心に生じた油断と驕り

1568年(永禄11)、13代足利将軍の義輝の弟・義昭を奉じて上洛を果たし、15代将軍に据える。しかし、両者の関係はその後悪化していき、信長に対抗する勢力を糾合して包囲網を築こうとした義昭は追放され、すべての官位を失う。1573年(天正元)、室町幕府はついに滅亡した。
さらに、比叡山を焼き討ちし、一時は同盟を結んで妹・市を嫁がせた北近江の浅井長政と越前の朝倉義景を滅ぼした信長は、大量の鉄砲を活用する戦法による長篠の合戦で武田勝頼軍も撃破した。1576年(天正4)に近江国安土に城を築いて本拠としてからは、本願寺や一向一揆のほか、毛利氏と戦う中国進攻に本腰を入れはじめる。
そして運命の年1582年(天正10)。天目山の戦で武田氏を滅亡させる甲州征伐を終えたのち、備中国高松城を攻略中の羽柴秀吉を支援するため安土から出陣し、京の本能寺に逗留中の6月2日夜、明智軍の急襲を受け、自害して果てた。
当時の織田軍は、中国侵攻のほか四国の長宗我部ちょうそかべ氏攻略に向けて準備中で、北陸方面での戦いもあって戦力が分散していた。信長の手勢は100人ほどにすぎず、その隙をまんまと明智軍に衝かれる。明智光秀がなぜ謀叛におよんだか。小説や映画、テレビでさまざまな物語が描かれてきたが、真相は闇のなかだ。
第六天魔王(仏敵)といわれた信長らしからぬ油断と、安土城内に「梵山」なる石を安置して自らを神格化するほどの驕りが招いた結果といえようか。時代を変えようとする変革者気質が強すぎ、当時の既成勢力、支配階級にとって信長ほど傍迷惑な人物はいなかったのだろう。
最新の歴史学によれば、「天下布武」の天下とは京を中心とした五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)を意味し、そこに足利将軍家の治世を確立させることだとか。その意味でいえば、義昭を15代将軍に就けた時点で天下布武は達成されたことになる。 信長自身がどこまでを天下と考えていたかは定かではないが、五畿内統一では満足せず、中国、四国、甲信越にも進攻しつづけ、六十余州(天下)統一の礎を築いた。その貪欲さこそ、競争著しい現代、企業の長が学ぶべきところなのかもしれない。

人づかいに関しては、信長は反面教師にしかならない。仕える側にとって信長は、厄介きわまりないワンマンであったことだろう。とはいえ、敵対行動をした者、しくじりをおかした者を、すべて排除したわけではない。好例が、権六こと柴田勝家。最初に仕えたのは織田信行で、信長の重臣・林通勝とともに謀叛に及んだが失敗し、剃髪して許され信長の家臣となる。信行2度めの謀叛が未遂に終わったのは、勝家の密告によるという。勝家はその後、数かずの戦で手柄を重ねて宿将として勢威を増していった。また、幼少より仕えた犬千代こと前田利家も、一度は信長の怒りを受け放逐され、桶狭間合戦やその後の戦功で許されて帰参し、前田家の家督相続を認められた。
若き日の信長には、そうした寛容さもあった。壮年期においても、戦国三梟きょう雄ゆうに数えられる松永弾正久秀には、2度めの裏切りまでは許している。

次回は「室町幕府再興を目論んで決起するも黒幕にハシゴを外されたのか 明智光秀」をお届けします。。

本コラムは2017年10月の『JMAマネジメント』に掲載されたものです。 *年齢はいずれも数え年。歴史には諸説、諸解釈がありますことをあらかじめお断りしておきます。