義を重んじ、ストイックに生きた文武両道の“軍神”上杉謙信:乱世の名将に学ぶ 5

日本能率協会の経営情報誌『JMAマネジメント』の誌面から「乱世の名将に学ぶ」全8回の連載をお届けしてまいります。

フリーライター 川田俊治 × JMAマネジメント編集室

武田信玄に領地を追われて信州から逃げてきた村上義清らを庇護し、関東管領の上杉宗家当主からも頼りにされて名跡を継いで関東管領職に就任——。義を重んじ、ストイックに生きた上杉謙信は、現代人にとっても役立ちそうな訓戒を残している。

信玄が謙信を長尾姓で呼びつづけた理由

上杉謙信が生誕したのは1530年(享禄3)。元服後の初名「長尾景虎」もよく知られている。父・長尾為景は、越後国の守護代から主家を押しのけて戦国大名への道を突き進んだ、下剋上の申し子の1人だ。
景虎が為景の何番目の男児だったかは諸説あって定かでない。兄・晴景が為景から家督を継いだが、病弱なうえに領主としての器量に欠けていた。そこで、15歳にして初陣を飾っていた景虎が重臣たちに担がれ、兄の養嗣子となって19歳で家督を継承する。そして、わずか3年後には一族の反乱などを抑え、越後統一を果たした。
武田信玄は生涯、謙信をけっして上杉姓では呼ばず、長尾と呼びつづけたという。その理由は、甲斐国守護の武田家との家格の差によるところ大だとされる。関東管領の上杉宗家(山内上杉家)は東国の武家社会の頂点であり、信玄にしてみれば、上杉と呼んだ時点で「家格の逆転」を認めたことになるからだ。
関東管領の上杉憲政が北条氏との戦いに敗れて越後に逃れ、景虎に関東管領職と上杉の名跡の譲渡を打診したのは1552 年(天文21)で、第1 次川中島合戦の前年にあたる。また、景虎が足利13 代将軍・義輝に拝謁して関東管領就任の内諾を得たのは1559 年(永禄2)で、その2 年後、両軍とも多数の死傷者を出す第4 次川中島合戦の火ぶたが切って落とされた。
景虎は上杉家の家督を継いで関東管領に就任して以降、「政虎」「輝虎」と名を変え、出家して剃髪後に「不識庵謙信」と号した。

後継者を決めぬままの急死で内乱勃発

対峙するだけに終わった1564年(永禄7)の第5次川中島合戦以降、両雄がまみえることはなく、謙信はもっぱら関東出兵に力を入れる。9年後、信玄の死を耳にした謙信は「われ好敵手を失えり、世にまたこれほどの英雄男子あらんや」といって号泣したとか。
良きライバルを失った上杉謙信は、武田勝頼や一向宗の指導者・本願寺顕如らと和睦を結んで信長包囲網の盟主となり、1577年(天正5)には手取川の戦いで織田軍を破ったが、翌年、出兵準備中に急死した。死因の有力説は脳溢血。梅干しや舐め味噌で酒を飲むのを好んでいたため、過度な飲酒と塩分摂取がたたって高血圧症に陥っていたのかもしれない。
約70回にも及ぶ戦を重ね、負けを喫したのは2度の小戦だけ。“軍神”とあがめられるにふさわしい戦績を残しているが、謙信は武一辺倒でなく、文化人でもあった。幼少期から春日山城下の古刹で禅を学ぶ過程で文化的素養も広く身につけたのだろう。関東管領就任の許諾を得るため上洛したおり、歌会に出て公家衆が驚くほどの和歌を詠み、達筆なばかりか、余技で琵琶を奏でたともいう。
また、信玄と同様、領国経営にも長けていた。からむしという麻の一種の栽培などの産業を振興し、特産物を全国に向けて販売する海運ルートの構築や、金山経営も行って国力を増強した。
ところが、謙信にも欠けていたものがあった。それは実子であった。なにしろ、20代に味わったという悲恋の逸話はいくつかあるものの、生涯不犯の誓いを立て妻帯もしなかったのだから、実子ができるはずがない。
後継者としては養子をあてる心づもりで、2人の有力候補がいた。景虎(北条氏康の子)と景勝(謙信の姉が嫁いだ長尾政景の子)だ。どちらかといえば甥にあたる景勝を可愛がっていたというが、後継指名をする前に謙信が急死したため、景虎派と景勝派が争う「御館おたての乱」となる。景勝が謙信の遺領(越後・佐渡・越中・能登)を継いだ。
上杉景勝は豊臣政権下で秀吉に重用されて五大老に列し、1598年(慶長3)には会津120万石を与えられた。しかし、秀吉の死後は徳川家康に従わず、石田三成と呼応しての挙兵が失敗した。そのため、出羽米沢30万石に転封される憂き目にあい、結果として、上杉家の勢力を衰退させることとなってしまった。

宝在心――宝は心にあり

派閥や同族の争いはいつの世も絶えない。争いの種にならぬよう、後継者選びはトップが壮健なうち、早めに決めて公表しておくに越したことはない。 謙信を神として祀った上杉神社(山形県米沢市)には「上杉謙信公家訓十六ヶ条」の碑がある。「宝在心」(宝は心にあり)の別名をもつその全文を右上に掲載する。 謙信には、戦働きばかりで知行を与え、人の長にしてはいけないといった名言もあるが、頼まれれば難事も引き受け、義理を重んじてストイックな生き方を貫いた謙信の人生観が「宝在心」にはあふれている。きめ細かく、心のありようを戒めた家訓は、現代人、とりわけ経営者など組織の長が、自分を見つめ直す際のチェックリストとしても使えそうな内容だ。 戦の直前になると、山海の珍味など豪勢な食事をふるまって将兵の結束を固めたが、平生の食事はいたって質素。酒も、大勢で酌み交わすタイプではなく、味噌か梅干しを肴に黙々と手酌酒。まさに「将の孤独」を感じさせる飲み方だ。来し方行く末を考え、己の心と対話しながら飲む酒が旨かったはずはないが、それでも飲酒癖はやめられず、春日山城内の厠で
上杉謙信公家訓十六ヶ条
  • 一、心に物なき時は心広く体やすらかなり
  • 一、心に我儘なき時は愛敬失わず
  • 一、心に欲なき時は義理を行う
  • 一、心に私なき時は疑うことなし
  • 一、心に驕りなき時は人を教う
  • 一、心に誤りなき時は人を畏れず
  • 一、心に邪見なき時は人を育つる
  • 一、心に貪りなき時は人にへつらうことなし
  • 一、心に怒りなき時は言葉やわらかなり
  • 一、心に堪忍ある時は事を調ととの
  • 一、心に曇りなき時は心静かなり
  • 一、心に勇みある時は悔やむことなし
  • 一、心賤しからざる時は願い好まず
  • 一、心に孝行ある時は忠節厚し
  • 一、心に自慢なき時は人の善を知り
  • 一、心に迷いなき時は人を咎めず
倒れて昏睡状態に陥り帰らぬ人となった。享年49歳。死を予期していたのか、辞世の歌は残されている。
「極楽も地獄も先は有明の月の心に懸かる雲なし」
だが、心に一点のかげりもなさそうな謙信にも、思い悩んでいた時期があると類推できる逸話がある。
1556年(弘治2)というから、まだ20代で長尾景虎だった頃の話だ。膠着状態に陥りつつあった武田信玄との戦いや一部国人衆の離反、家臣団の内部抗争などが重なった状況に嫌気がさし、出家をするといい残して春日山城を抜け出し、高野山に向かう大騒動を起こしたというのだ。結局、高野山に着く前に追いついた家臣から出家を思いとどまるよう説得され、結果的には、家臣団が心を一にして臣従するという誓紙を差し出すことで一件落着……。
奇矯な性格の現れ、あるいは人心掌握のための計画的行動といった解釈もあるが、毘沙門天の生まれ変わりと称された謙信とて、若気の至りが1つや2つあってもおかしくはない。逆に「うちのお屋形やかたさまも、生身の人間だった」と親しみを感じた家臣もいたはずだ。
責任ある立場の人間だって、ときにはガス抜きも必要と、そんな解釈もできる逸話ではなかろうか。

次回は「「第六天魔王」の悪名も厭わず天下統一へ邁進 狂気を帯びた天才武将、織田信長」をお届けします。。

本コラムは2017年9月の『JMAマネジメント』に掲載されたものです。 *年齢はいずれも数え年。歴史には諸説、諸解釈がありますことをあらかじめお断りしておきます。