日本能率協会の経営情報誌『JMAマネジメント』の誌面から「乱世の名将に学ぶ」全8回の連載をお届けしてまいります。
フリーライター 川田俊治 × JMAマネジメント編集室
父を追放して甲斐国守護となった武田信玄は、川中島合戦を経て信濃国を平定ののち、駿河などへも侵攻した。1572年(元亀3)、反信長勢力と結んだ信玄は、上洛にむけて行軍を開始。三方ヶ原の戦いで徳川家康軍を撃破したが、やがて病に倒れ53歳で客死。甲 斐武田家は信玄の遺志を継ごうとした勝頼の代で滅亡したが、遺臣には徳川幕府に召し抱えられた者も少なくない。今回は、江戸時代に入ってからも名将として高く評価された信玄を学びの教材としたい。
重臣の支持を得て父・信虎を“追放”
武田信玄(晴信)は1521年(大永元)、甲斐源氏武田家18代当主・武田信虎が甲斐国守護から戦国大名として領内統一を果たしつつあった時期に出生。兄がいたが夭逝したため、嫡男として育つ。しかし、『名将言行録』などによれば、信玄は13歳を過ぎるころから父に疎まれはじめた。信濃海ノ口城攻めのおり、16歳にして殿部隊を指揮。悪天候で引きあげるなか、あえて引き返して早朝に奇襲をかけ、守将の首を取る手柄をあげ、知将としての才を現した。しかし、父信虎は、4つ下の信繁を寵愛したという。
娘を佐久郡(現・長野県佐久市)の諏訪頼重に嫁すなどして信濃国に進出しはじめていた信虎だが、人心は離反。諫言した重臣を何人も手討ちにするほど、傲慢かつ粗暴な性格であったと伝わるが、はたして事実はどうなのだろう。
1541年(天文10)、信玄は板垣信方、甘利虎泰ら重臣とともに信虎を強制的に隠居させて駿河に追放し、甲斐武田家19代目の家督を継いだ。
戦国乱世において、父子・兄弟・同族が相争うのは珍しくもない。なかには息子が父親を手にかけた例すらあり、“追放”はまだ、気づかいがあったのかもしれない。
信虎は、駿河守護・今川義元のもとに長女(信玄の姉)を正室として嫁がせており、それは、武田と今川の甲駿同盟を固めるためであった。しかし駿河に追放された信虎は、以後、甲斐国に足を踏み入れることはかなわなかった。駿河に伴った側室との間に子をもうけ、京都や奈良など畿内を遊歴もしたという記述が残されている。信玄は多額の隠居料を払っていたという。
今川義元亡きあと、その継嗣・氏真に信玄への内通を疑われた信虎は上洛し、13代将軍・足利義輝の相伴衆を務めたが、信玄の死より1年遅く、1574年(天正2)に信濃で80年の生涯を閉じた。
信虎に諫言して手討ちにあった重臣の家は、信玄が復活させている。武田二十四将に名を連ねる内藤昌豊、馬場信春、山県昌景はいずれも名跡を継いだ御曹司だ。「人は城、人は石垣、人は堀。情は味方、仇は敵なり」という有名な言葉はダテではない。息子・義信を廃嫡し自殺に追い込むなど、身内に対しては冷たい一面もあった信玄だが、家臣に対しては情にあつい武将だった。
「軍勝、五分を以て上となし、十分を下となす」
信虎が当主だった時期、武田家は相模の北条氏と敵対していたが、新当主となった信玄は路線を変更して1544年(天文13)、北条氏と和睦。さらに、対立していた今川氏と北条氏の仲裁をし、のちの甲・相・駿の三州同盟につながる関係を築いたうえで、信濃侵攻に邁進した。今川・北条の関係が安定したことにより、東信へ侵攻。諏訪、伊那を制圧し、信濃国守護だった小笠原長時を塩尻峠で破って越後に追う。なかなか手ごわかった埴科郡葛尾城主・村上義清は、1553年(天文22)、葛尾城を捨てて越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後国へ逃げた。
川中島の戦いは、頼られた謙信の立場からすると、村上義清の旧領回復を名目とする戦いだった。武田信玄にとっては厄介な敵となる。“甲斐の虎”と“越後の龍”はにらみ合いを含めて5度にわたって川中島周辺で対陣。1564年(永禄7)の第5次合戦は、文字通り対峙だけで終わったが、1553年の第1次合戦にはじまり、1557年(弘治3)の第3次合戦で、将軍義輝から和睦を内示された信玄は、受諾条件として信濃国守護職を要求し、同職に補任されたのだが、1561年(永禄4)の第4次合戦では、両軍とも多数の死傷者を出し、信玄の弟・信繁も戦死するほどの激戦が行われた。実質的な信濃平定には12年の月日を要した。
その後も亡くなる直前まで戦に明け暮れた信玄は、次のような言葉を残している。
「およそ軍勝、五分(5割)を以て上となし、七分(7割)を以て中となし、十分(10割)を以て下となす」
その理由を「五分は励を生じ、七分は怠を生じ、十分は驕を生じる」とし、「たとえ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中のこと、この心掛け肝要なり」と説く。
怠け心や驕りが生じず、自らの励みとなるような5割程度の勝ち方こそが、組織の頂点に立つ人間には最良との教えだ。
戦のかたわら領国統治も抜かりなし
領国内の治安維持・統一のため、大名主導で紛争解決等の基準を明文化した分国法を制定したケースは少ないとされるが、武田信玄はその希少な戦国大名の1人だ。信玄が分国法にあたる「甲州法度之次第(信玄家法)」を制定したのは1547年(天文16)。北信濃の小笠原長時や村上義清との戦いのさなかのことである。信玄は戦に強いだけの武将でなく、領国=地域内国家の統治についても考えをめぐらせていた。甲斐国は広い平野部もあるが、釜無川と笛吹川は暴れ川で、しばしば氾濫した。そこで信玄は治水事業に取り組み、新田開発にも力を入れた。山梨県甲斐市竜王にある信玄堤はその名残の1つとされる。
また、甲斐には黒川金山はじめ豊富な埋蔵量を誇る金山があり、南蛮渡来の掘削技術、精錬方法を取り入れて軍事費や治水・開墾事業などの財源としたが、わが国初の金貨を鋳造させたのも信玄である。それが「甲州金」「碁石金」と呼ばれるものだ。
マネジメント面はどうだったか。組織を統治するにはトップの意を汲んで部下を動かす管理者の役割が重要だが、童門冬二氏はかつて『名将言行録』を題材とした雑誌連載で、信玄の人材登用術にまつわる象徴的なエピソードを紹介している。
戦のたびに一番槍をつけることで知られた勇猛果敢な足軽を一隊の長(足軽頭)に登用したが、彼は部下をもつ立場になってからも先頭に立って敵陣に突入して手柄を立てる行動パターンのままだった。部下は「いいお頭だ」と褒めそやしたが、信玄はその長を呼んで、元の足軽に戻すと叱った。なぜそんなふうに叱られるのかわからない足軽頭に、信玄はリーダーの役割をこんこんと説いた。
リーダーが先頭に立ち、こっちに来いと指示するばかりでは部下の思考力や判断力が育たない。だから、リーダーは臆病者の汚名を着ることも恐れず、隊の後ろにいて部下を動かすようにせよ。それが自分で判断のできる部下を多数育てることにつながる。
現代の中間管理職の育て方にも活かせそうな話ではないだろうか。
信玄は三方ヶ原の戦いの直後に喀血して上洛を断念し、甲府へ戻る前に1573年(天正元)、信濃国伊那の駒場(現・長野県下伊奈郡阿智村)で病死した。享年53歳。20代の頃から何度となく体調を崩すこともあったようだ。自分で漢方薬を調合した徳川家康のように健康管理を徹底していれば、上洛の大志を果たせたかもしれない。
次回は「義を重んじ、ストイックに生きた文武両道の“軍神”上杉謙信」をお届けします。。
本コラムは2017年8月の『JMAマネジメント』に掲載されたものです。
*年齢はいずれも数え年。歴史には諸説、諸解釈がありますことをあらかじめお断りしておきます。