日本能率協会の経営情報誌『JMAマネジメント』の誌面から「乱世の名将に学ぶ」全8回の連載をお届けしてまいります。

フリーライター 川田俊治 × JMAマネジメント編集室

スタートアップ企業でも短時間で成長できる時代を迎えています。下克上の世にも似ているいま、今日の乱世を進むために、戦国時代の名将たちから学ぶ連載をお届けします。

覆されつつある中世史の定説・通説

2016年10月に刊行された『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)が発行部数28万部を超えるベストセラーとなっている。著者の呉座勇一氏(国際日本文化研究センター助教)は、日本中世の「戦争と平和」を主要研究テーマとする気鋭の歴史学者。同書には典型的な善玉・悪玉は登場しない。“悪妻”と決めつけられてきた日野富子が、歴史学界では「経済面から幕府を支えた存在」という評価に変わりつつあることも明かしている。
これまでの中世史の定説・通説のいくつかには疑問符がつくような発見もされている。たとえば、斎藤道三の“国盗り”は、岐阜県史編纂の過程で発見された古文書により、父子2代にまたがるものだとする説が有力視されるようになった。
その斎藤道三とともに「梟雄きょうゆう(残忍で勇敢な人物)」の代表格で、戦国大名の嚆矢こうし鏑矢かぶらやの意、最初)とされる北条早雲(伊勢長氏)も同様だ。定説では1432年(永享4)生まれで、没したのが1519年(永正16)。享年88というのは当時としては相当な長生きだが、史実との間で矛盾もある。連載第1回目は、北条早雲を学びの教材としたい。

将軍直属の奉公衆から駿河国の小城主に

出自は、備中国びっちゅうのくに荏原えばら荘の領主の次男。その彼が、いかなる経緯で関東に根づく礎を築いたのか、から見ていこう。
応仁の乱(1467 〜77年)以降、室町幕府の権威は揺らぎ、各地の守護が支配地の地侍や小豪族を家来に加えて勢力を拡大する傾向が著しくなっていた。
早雲の姉(妹説もあり)が駿河国の守護・今川義忠に正室(側室という説もあり)として嫁ぎ、嫡男として生まれた龍王丸(のちの今川氏親)が6歳だった1476年(文明8)、義忠が急死して今川家に家督争いが起こる。早雲の父とされる伊勢盛定は当時、9代将軍・足利義尚のもうしつぎしゅう。早雲は幕府の意向を受けた父の代理として駿河国するがのくにへ赴いて調停にあたる。そして、龍王丸が成人するまで今川家の家督を相手に預けるという条件で和議を結び、都へ戻る。
1487年(文明19)11月、龍王丸が15歳を過ぎても、相手が家督を返上しようとしないため、奉公ほうこうしゅうに任じられていた早雲は将軍の命を受けて再び駿河へ下り、その一派を討伐。2年後、晴れて龍王丸は元服して今川氏親となり、駿府館すんぷかんの主となる。甥にあたる年若い氏親を支援するため早雲は京へ帰還せず、外戚として興国寺城主となる道を選んだ。経緯はともかく、そこが早雲の相模さがみ進出の拠点となる。

伊豆討ち入りと小田原城奪取の真実

早雲が興国寺城主となった当時、足利幕府と古河公方くぼうは折り合いが悪く、8代将軍・義政が新たに送りこもうとした鎌倉公方は、鎌倉入りさえできず、伊豆の堀越ほりごえを本拠としたことから堀越公方と呼ばれた。その堀越公方家でも後継争いが生じる。
異母弟とその生母を亡き者にして2代目堀越公方を自称した茶々丸は、その後も筆頭家老などの重臣を殺すといった暴虐行為を重ね、領民もいじめ抜いた。
1493年(明応2)、早雲は11代将軍・義澄から茶々丸討伐の命をとりつけ、今川氏親などの援軍とともに伊豆に攻めこむ。この「伊豆討ち入り」ですんなり茶々丸を討伐できたわけではないが、やがて早雲は韮山に居を移し、伊豆の統治に努める。
伊豆討ち入りの手引き役を果たしたと目される、関東管領かんれい・扇谷上杉家上杉定正は、山内上杉家の上杉顕定の中傷を真に受けて有能な家宰だった太田道灌を謀殺。それを契機として両家の争いが勃発する。その定正は1494年(明応3)に戦死したが、次期当主と相模守護を継承した養嗣子の朝良ともよしも、早雲に援軍を要請して奪われた城の奪還に成功するなど、良好な関係がまだつづいていた。
1516年(永正13)、早雲は最後まで抵抗していた三浦氏を滅ぼし、ついに相模一国の平定を成し遂げ、家督を氏綱に譲ってから1年後の1519年(同16)、韮山城(静岡県東部。現在は伊豆の国市の一部)で没した。

遺徳を慕い、新領主徳川をてこずらせた関東の領民

幕末期に上野国館林こうずけのくにたてばやし藩秋元家の家臣だった岡谷おかのや繁実しげざねが編述した『名将言行録』には、伊豆の領主となった早雲が善政を敷いたエピソードも紹介されている。戦乱の世、領民(大半は農民)は重税に喘いでいたが、早雲は「国の主体は農民である」として税率を四公六民に軽減した。
早雲が若者向けに遺したとされる「早雲寺殿廿一箇条にじゅういっかじょう」のいくつかを抜粋で紹介しておこう(用字用語は一部改変。難解なものには現代訳を付した)。
【第二条】朝はいかにも早く起くべし。遅く起きぬれば、召し使う者まで油断し、使われず公私の用を欠くなり。果たしては必ず主君に見限られ申すべしと深く慎むべし(その結果、主君に見限られることになるので、自戒すべきである)
【第五条】(前略)ただ心を直にやわらかに持ち、正直憲法にして上たるを敬い、下たるをば憐み、あるをばあるとし、なきをばなきとし、ありのままなる心持ち、仏意、冥慮にもかなうと見えたり。たとえ祈らずとも、この心持ちあらば、神明の加護のあるべし。祈るとも心曲がらば、天道に放され申さんと慎むべし
【第十一条】数多交はりて事なかれといふことあり。何事も人に任すべきことなり(さまざまなことを一人で背負いこんで、何もできぬのは愚かなこと。しかるべき人間に任せるべきである)
【第十四条】上下万人に対し、一言半句にても虚言を申すべからず。かりそめにもありのままたるべし。空言(嘘)言いつくれば、くせになりてせらるるなり
(後略)
戦国時代に類をみない今日的な考え方は、京の室町幕府に出仕していた時期に、建仁寺と大徳寺で当時の最高知識階層である禅僧に学んだことから培われたのだろう。小田原征伐後に秀吉の命で関東へ移封された徳川家は、北条氏の遺徳を慕って新領主になじもうとしない領民に手を焼いたという。

知略正しく節義を守る

1590年(文禄4)、小田原城は約3カ月に及ぶ城攻めに耐えた末、5代目当主・北条氏政が責めを負って自害し、その子、氏直や城兵を救った。
長期にわたる城攻めにもかかわらず、反逆者がほとんど出ず、氏直が高野山へ落ちていく際にも従おうとする者が多数あった。徳川家康は北条氏を「早雲以来、知略正しく、家臣みな節義を守る家柄」と評したとか。新たになってきた北条早雲像は「梟雄」のイメージからほど遠い。
『名将言行録』の有名なエピソードとして「神前の誓い」がある。6人の仲間とともに郷里を出て関東に出る途上、伊勢神宮に詣でて神水を酌み交わし、「たとえいかなることありとも、この七人、不和を生ずべからず、互いに援助をなし、功名を立つべし」云々という誓いを立てた、というものだ。備中国から大道寺氏などを道連れとし、のちに家臣としたのは歴史的事実のようだ。
梟雄よりも「知略正しく節義を守る男」たれと早雲から学べるのではないだろうか。

次回は「天下を狙わず中国地方の覇者となった毛利元就」をお届けします。。

本コラムは2017年5月の『JMAマネジメント』に掲載されたものです。 *歴史には諸説、諸解釈がありますことをあらかじめお断りしておきます。