「秀吉の九州征伐」「関ヶ原の戦い」二度の危機をくぐり抜けた島津義久:乱世の名将に学ぶ 3

日本能率協会の経営情報誌『JMAマネジメント』の誌面から「乱世の名将に学ぶ」全8回の連載をお届けしてまいります。

フリーライター 川田俊治 × JMAマネジメント編集室

九州制覇を豊臣秀吉に阻まれたうえ、天下分け目の関ヶ原合戦では西軍に属して島津家存亡の危機に直面——。戦国乱世にあって「古今伝授」(難解な古今和歌集の解釈秘伝の特定個人向け講義)を細川幽斎から受けた教養人でもあった島津義久は、いかにして危機を回避したのか。

父の悲願を受け継ぎ薩摩・大隅・日向を平定

島津氏は、鎌倉時代に薩摩・日向にまたがる広大な荘園を与えられて以来つづく名家。島津の姓はその荘園の名にちなむ。
義久の父・貴久は、ポルトガル人が種子島にもたらしたばかりの鉄砲を、合戦にいち早く使用した進取の気性に富んだ武将だが、守護職を継いできた島津宗家の直系ではない。数ある分家の1つ伊作いざく家から、弱体化していた宗家の嗣子に選ばれて第15代当主となり、“島津の英主”と称えられる存在だった。
義久は、1533年(天文2)に貴久の長男として生まれ、1566年(永禄9)に第16代島津家当主となった。幼少時は勇猛果敢な3人の弟(義弘、歳久、家久)との比較で「愚兄賢弟」と評されたとか。
貴久が着手した薩摩・大隅・日向統一の悲願を受け継ぎ、弟たちと力を合わせて大隅の肝付氏と伊地知氏を帰順させて、日向の領主・伊東氏を豊後に追いやり、1577年(天正5)に3カ国を統一(三州統一)。翌年、攻め寄せてきた豊後守護の大友軍を「耳川の戦い」で撃退し、さらに1584年(天正12)には援軍要請を受けて肥前国島原に出陣し「沖田畷の戦い」で龍造寺軍を打ち破った。
肥前への出陣では、軍士を集め加増を約束し、その子弟を召し出して生前に相続を安堵し、これによって、兵の士気と団結を高めたという。

九州征伐に抗戦後、本領に戻って剃髪し降伏

その後、肥後と筑前・筑後の戦国大名も島津氏になびいたことで、九州内に残る際立つ抵抗勢力は、豊後の大友氏だけとなった。
キリシタン大名としても知られる大友宗麟。全盛期には、豊後・豊前のほか筑後・筑前、肥後・肥前の6カ国の守護を兼ねていたが、耳川の戦いでの大敗以降、大友氏の勢威は衰退の一途で、宗麟の跡を継いだ義統よしむねは1587年(天正15)、ついに島津氏に領国を奪われた。
すでに隠居していた大友宗麟から救済を求められた豊臣秀吉は義久のもとに、これ以上戦はするなと命じる書状を送った。「惣無事令そうぶじれい」と呼ばれるものだ。それを無視する格好で島津軍が筑前国攻めを敢行したことで、秀吉による「九州征伐」がはじまる。
秀吉の弟・秀長が率いる先鋒、秀吉自らが率いる本隊はそれぞれ10万を超える軍勢で、勇猛果敢な島津軍も多大な犠牲を払いつつ本領へと撤退。鹿児島に戻った義久は剃髪して名を「龍伯」と改めたのち、秀吉と会見して正式に降伏した。当主として“ほこの納め時”は間違えなかったといえよう。
弟の義弘や歳久らが徹底抗戦をつづけるなどのゴタゴタはあったが、義久は薩摩一国を安堵され、大隅一国は義弘にあてがわれた。義久には男児がなかったため、島津宗家の家督は実質的に義弘が継ぎ、以後、豊臣政権に対する折衝役も主に義弘が担った。ただし、島津領内における実権は大隅国に居城を移した義久が保持しており、「両殿体制」と呼ばれる二重権力構造となった。

「楠木正成に劣らぬ采配ぶり」と家康が感心

豊臣の軍門にくだったとはいえ、島津家は必ずしも豊臣政権に全面的に従順であったわけではない。刀狩令になかなか従わず、朝鮮出兵でも撤兵に際して義弘隊が軍功をあげているが、命じられた軍役を十分に果たしてはいない。
秀吉亡きあとの1600年(慶長5)、関ヶ原の戦いに際して京都にいた義弘は西軍への加担を決め、国元に援軍を要請したが、義久は応じていない。関ヶ原合戦後に島津家が改易を免れた要因の1つは、西軍加担は義久のあずかり知らぬこととして押し通したこと。そして、敵中突破で東軍を驚かせた義弘の後継者・忠恒が義久の名代として上洛し、謝罪したことも家康に好印象を与えたことだろう。
義久・義弘兄弟が前もって打ち合わせしていたかどうかはわからないが、真田幸村の兄・信之が東軍について家名と領地を守ったことに共通する、乱世の武将ならではの深慮遠謀を感じる。
1602年(慶長7)、正式に家督を忠恒に譲った義久は、晩年を大隅国国分の舞鶴城で過ごし、1611年(慶長16)に病死した(享年79)。古今伝授を受けた人らしく、高尚な辞世の歌を詠んでいる。 「世の中の よねと水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」
義久の甥を招いて耳川の戦いの一部始終を聞いた家康は「楠木正成に劣らぬ采配ぶりよ」と義久を評したと伝わる。

「悪人こそ我が師なり」

義久にはいくつかの名言が残されているが、特異なのが「昔の悪いことを知ると、自然と良いことができる。悪人こそ我が師なり」。中国の大悪人とされる人物などの肖像画を飾り、就寝前に日々の行いを反省する習慣があったとか。そこから考えると「ああいう経営者にだけはなるまい」と思ったら、その人の写真を折にふれ眺めて反面教師とするのもよいかもしれない。ほかにこんな言葉も残している。
「上よりまず礼儀を正し、家臣はその恩恵をかたじけなく感じて我が行いを恥じるようになりたいものだ」
「肝要のところに気を配れ。どうでもよいところに気をつけるものではない」
いずれも現代の経営者の参考になりそうだ。さらにもう1つ。
「表に桜を植えたのは、参詣する人が花を楽しみ、心が豊かになるだろうからだ。裏に栗を植えたのは、栗の実は何かあったときには食料となり、枝は薪にも使うことができる。桜は花を楽しませ、栗は実を取る」
江戸時代に入ってから島津家のお膝元の国分地方(現・鹿児島県霧島市)ではタバコの葉の生産がはじまったが、それを奨励したのは義久だとされる。当時、農作物の乏しかった九州南部のこと、「国分」は煙管タバコのブランドとなり、薩摩藩の大きな財源の1つに育つ。
時代劇や時代小説では薩摩藩の“抜け荷”(密輸)がよく取り沙汰される。鎖国体制になってからも、徳川幕府の目が届かない遠隔地で海が近い藩では薩摩に限らず密輸が横行し、藩財政を潤していたようだが、薩摩藩の抜け荷の基地とされたのが琉球だ。1609年(慶長14)にはじまる琉球出兵を積極的に推進したのは義弘・忠恒父子で、義久は反対していたとされる。
琉球は、中国(明・清)と日本の鎖国政策のはざまで中継貿易を行うため、中国を宗主国としていたにもかかわらず、薩摩藩の支配下に取り込まれていく。悪人を反面教師とする義久には、小さいながらも王国を形成する琉球を侵略するのは、国内の領土争いと一線を画する悪辣行為と映ったのだろう。
島津の分家だった伊作家は、三代にわたって英傑を生んだ。父の貴久については前述したが、祖父の忠良は、当主が早世して衰亡していた島津宗家に長男貴久を養子入りさせ、島津宗家を復興に向かわせた。
その忠良が、孫にあたる義久を「三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たるの材徳おのずから備わり」、義弘を「雄武英略を以て傑出」と評したという。
その意味で、薩摩・大隅・日向3カ国支配の礎は忠良、貴久と義久兄弟の三代で築いたものといえよう。
一代では叶わなかった遠大な夢を、次代以降につないでいく。このこともまた、長寿経営のためには学ぶべき点が多くある。

次回は「分国法を制定し、領国の地域国家としての基盤を整備管理職育成術も卓抜だった武田信玄」をお届けします。。

本コラムは2017年7月の『JMAマネジメント』に掲載されたものです。 *年齢はいずれも数え年。歴史には諸説、諸解釈がありますことをあらかじめお断りしておきます。